2013-07-05
分水嶺の北側
C-9 市川 熹
蓼科山には「ヒジンサマ」という名の山神が住んでいるという伝承があります。姿は黒い雲に包まれた球状で、その下には赤や青のビラビラしたものが下がっており、空中を飛ぶと言われているそうです。ヒジンサマが山を通ると人々は山仕事をやめるそうです(金子総平「ビジンサマ」、『民間伝承』第6巻第8号、民間傳承の会、1941年、 7頁に出ているそうです)。台風など天候不順の時の山岳地帯での危険回避を促す知恵なのかもしれませんね。
蓼科山は、南側が茅野市、北側が立科町に属している標高2530.3mの八ヶ岳連峰山系の成層火山で、日本百名山のひとつであることは皆様良くご存じだと思います。江戸時代の記録(蓼科山略伝記)では、頂は常に氷雪積もり、旧暦6月にようやく消え、8月には又降るため、参詣は6月8日から28日までに制限され、潔斎して登山しなければならず、女人は禁止されていたようです。「高木神」が山頂の祠に祭られています。高木神は、神話に出てくる造化の三神、天御中主神・神皇産霊神・高皇産霊神の中の「高皇産霊神」(タカミムスビ、高木神、皇室の至上神。「創造」を神格化した神)で、この三神は性差の無い、人間界から姿を隠している「独神」といわれています。しかし山の姿がやさしいため、現代では女神にされているようですね。
その蓼科山は、太平洋側と日本海側を分ける分水嶺となっています。八ヶ岳から、双子山、大河原峠、蓼科山、スズラン峠(旧名大石峠)、八子ヶ峰、三本松(白樺湖から蓼科牧場方向に県道40号線(ビーナスライン)をちょっと登ったところ)、大門峠、車山北側の山彦尾根大笹峰、鷲ヶ峰、和田峠、扉峠、美ヶ原にかけた線です。
茅野市は旧地名でいえば諏訪郡にありますが、北側の隣接地には北佐久郡や小県郡があります。北佐久郡には立科町(旧芦田村、三戸和村、横鳥村、望月町の一部が合併。もともと立科が蓼科より古い地名)が、小県郡には長和町(長門町と和田村が合併)などが隣接しています。佐久や小県が概ね日本海側に、諏訪は太平洋側に雨水が流れる区域になります。気候もこの線で変わり、雪の降り具合も異なるように思います。TVの全国の天気予報も、長野県は長野市の情報で代表されますが、日本海寄りの予報で、別荘地は太平洋側、東海地方の天気に似ています。積雪時期も長野市よりも、むしろ東京に近い春先ですね。
別荘地の北隣であるこの分水嶺の北側の地域を中心に、ご紹介しようと思います。
別荘地の事務所から立科町の方向にビーナスラインを登ってゆくと別荘地北側の入口のある竜源橋から蓼科山登山口(多分蓼科登山には直登に近い一番急登な登山道の口)、スズラン峠(本来は大石峠と呼ばれ、観光用に命名されたもので、スズランはありません)を経て南平の分岐点に出ます。
竜源橋からは、滝の湯川に沿って間道を登ってゆくと大河原峠に出ます。信濃の国における古東山道(律令制以前の東山道)の位置は明らかではなく、諸説があるようですが、親湯が古くから開けた土地として坂上田村麻呂が発見したという伝説もあり、この道であったのではないかと故一志茂樹博士(元長野県文化財保護審議会会長)は考察していたそうです。しかし律令制以前と田村麻呂の時代(平安時代)の差が気になるところです。東山道は西海道に次ぐ2番目に重要な街道(いわば国道2号線)といわれています。
この間道の途中、天祥寺ヶ原(名前の由来は知りませんが、人の気配も少なく、のんびりとした気持ちの良い高原です)から分岐点を左に行くと蓼科山山頂下の将軍平小屋に出ることができます。間道をもう少し先に進み、分岐点を右に取ると亀甲池から双子池に出ることができますし、亀甲池からは大変急な登山道ですが、北横岳へと行くこともできます。双子池からは北横岳をまいて雨池へと行くことができます。雨池への道は林道で砂利の平坦な道です。
大河原峠からの蓼科山登山は、ちょっと距離があるのですが、比較的傾斜が緩やかで、将軍平に出ることができます。私はかつて幼稚園の年少組の長男を連れて、このルートから蓼科山に登ったことがあります。泣きながらついてきたのですが、帰京後幼稚園で雷さんより高いところに行ったと自慢していた様です。
南平には「べてーじん(弁天神)」とよばれる綺麗な湧水があるのですが、水源保護のため立ち入りができません。南平はビーナスラインの峠から見下ろすと平坦な森に見えますね。50年ほど昔は水芭蕉のある湿原でしたが、植林が育ち、その面影は全くなくなってしまいました。
南平から右に行くと、蓼科牧場に出ます。
蓼科山の北麓一帯は昔から朝廷の牧場(御牧)として有名で、望月の牧からも毎年数十頭の名馬が調達され、天皇の御覧に供されました(駒牽)。そこでの伝承を紹介しましょう。
蓼科牧場の直ぐ先、左側に女神湖(もとは「赤沼」と呼ばれた湿原で、食糧増産のために造られた人工湖です。最初に試みられたときには水が漏れてしまい、作り直したそうです)があります。
女神湖の近くに「鍵引き石」という岩が六川道(県道40号線)沿いにあります。望月の牧場から諏訪に行くには、中山道や大門街道はやや遠回りで、和田峠など、厳しい峠もそれぞれ2つ越えなければならないのに対し、六川道は狭い道ですが、便利で、通る人も多かったそうです。しかし、赤沼に住む河童が「鍵引き石」に出没し、通りがかった人の馬の「尻こだま」をぬいて食べるため、人々は大変困っていました。河童は馬の手綱に鍵を投げてひっかけ沼に引き込むのだそうです。
あるとき庄屋に馬を運ぶようにと善助爺さんと柏原の作蔵が頼まれました。善助爺さんは芦田で所要があり、作蔵は先に行くことになりました。作蔵は力持ちで評判でしたが、途中操作ミスから手綱を切ってしまい、裸馬で通りかかりました。河童はやむを得ず鍵を投げて作蔵の腕にひっかけ引こうとしましたが、馬が驚いて駆け出し、作蔵は馬の尻尾にしがみつき、半町ほど河童も引きずられました。河童は弱ったところを作蔵に組み伏せられてしまいました。後から来た善助爺さんの提案で、今後このような悪さはしないと証文を書かせ、恩を売り逃がしてやったそうです。その後河童は現れず、安全に通れるようになったそうです。
「赤沼の河童」には、諏訪頼遠に力比べをして負けたなど、他にも別伝があります。
話しは先走りますが、和田峠の厳しさを裏付けるものとして、峠の深沢地区に「接待」と呼ばれる場所があります。江戸時代に日本橋馬飼町の綿糸問屋中村有隣という人が、その難儀さを見かねて休憩所を作るようにと、幕府に千両を寄付、幕府は尾張藩に運用を委託し、毎年利息百両を二分して、1827年から明治3年(廃藩置県)まで、和田峠と碓氷峠の休憩所支援に活用したのが「接待」という呼び名の起源だといわれています(和田村資料から)。東海道は伊勢湾や多くの大河を渡り、箱根を超えるなど、必ずしも便利ではなく、東山道や中山道が東国への主要道路だったことを反映しているエピソードですね。
蓼科牧場からは、右に林道を登ってゆくと御泉水、鳥居のある蓼科七合目(これも観光目的で「七合目」とされたようで、ここから鳥居をくぐって登山道を登ってゆくとその上に五合目という標識が出てきます!)を経て大河原峠に出ます。蓼科牧場からは赤谷を経て大河原峠までも諏訪バスが入っていたのですが廃止になってしまいました。その先は佐久平方向ですが、私は行ったことがありません。
御泉水までは蓼科牧場からゴンドラで登ることもできます。御泉水に入らずに右手前の間道を通ると七合目に行くことができます。七合目からの蓼科登山道の途中には「馬返し」や、見晴らしの良い「天狗の露台」というガレ場があり、さらに登ると将軍平に出ます。蓼科登山では「天狗の露台」で休憩するのが楽しみでした。蓼科山山頂から御来光を見るために夜中に登山を開始し、将軍小屋で休憩して山頂に行くなど、この小屋には何度も御厄介になったものです。早朝の山頂では「ブロッケンの妖怪」(自分の影が反対側の雲に映る現象)を見られることもあります。
御泉水は、もともとは蓼科牧場に放牧されている牛の水飲み場で、観光を目的に整備されたものです。私が初めて訪れた時は、蓼科牧場は現在のようには観光牧場化しておらず、第2牧場と同様に普通の牧場で、御泉水のところにも牛が水を飲みに登ってきていました。
七合目の鳥居とは反対側の間道を降りると気持ちの良い湧水があります。この水は「蓼仙の滝」に繋がっていますが、この滝へは急な道を降りなければなりません。
南平から蓼科牧場への道は、蓼科牧場で白樺湖から小諸方面に抜ける県道40号線に合流します。県道40号線(白樺湖小諸線、実延長80㎞弱、長野県で最長の県道。六川道(ろくがわみち:六川(ろくがわ)源五右衛門が明治時代に馬車が通れる程度に拡幅したので、地元ではこのように呼ばれる。誤って「ろくせんどう」とも。)は芦田で中山道と交差します。望月(中山道25番目の宿場)、芦田(26番目)、和田(28番目)などは諏訪に通じる中山道の宿場町です。武田信玄が北信地区に進出する話しには良く出てくる地名です。「棒道」はこの方面に武田軍が進軍するための軍用道路です。そういえば、白樺湖から流れ出る「音無川」は、信玄が「うるさい、だまれ!」と言ったので静かになったという言い伝えから付いた名前だと聞いています。
宿場町である芦田(本陣土屋家の客殿(1800年ころ建設)は原形で一般公開されている)には、古い旅籠の「金丸土屋旅館」があり、先代のご主人は数年前に亡くなられましたが、代が替り、最近浴場などを改装している(7月完成予定らしい)とかで、この会報が出るころには営業を再開していると思います。
蓼科牧場から芦田までの途中には、「鍵引き石」の他に、「鳴石」、「与惣塚」、「雨堺」(古くは「天坂」)などの地名が出てきます。
鳴石(鏡石とも呼ばれている)は鏡餅状に重なった二個の巨石です。昔、風が強く吹けば鳴ったため、このように呼ばれ、この石が鳴るときは、必ず天気が悪くなるといわれているそうです。
ある時、石工がこの石を割ろうとして金槌で二つ三つ叩くと山鳴りがして地震が起き、たちまち火の雨が降り、石工はもだえ苦しんで死んでしまったので、この事があってから、強く叩くことはいけないとされています。柔らかく叩くと鈴のような音がします。鳴石は大和の王権による東国の制覇が一段落し、大和と東国の交流、東西の交易が盛んになった6~7世紀頃に蓼科の神を祀る祭祀の場として古東山道の交通の要衝に築かれたものと考えられています(立科町資料から)。
「雨堺」(古くは「役の行者越え」「天坂」)付近は祭祈に用いる勾玉の滑石製模造品等が出土することから「勾玉原」と呼ばれています。この「雨堺」は諏訪・白樺湖方面からの雨雲の移動経路ともなっているようです。白樺湖方向に黒雲が見えると直ぐに雨や雷が来ます。
「赤沼の河童」伝承に出てきた「鍵引き石」も実は旅人の安全を願った祭祈遺跡ではないかといわれています。このように見てくると、「六川道」が律令制以前に設定された古東山道であった可能性があるのではないでしょうか。
逆に蓼科牧場から白樺湖方向へ県道40号線を行くと、途中に箕輪平というところがあります。このあたりには、蓼科山からの湧水を遥か下流の水田の灌漑用水として引かれた水路が何本もあります。「堰(せんぎ)」とよばれ、「塩沢堰」、「八重原堰」などがあります。17世紀前半の寛永年間に起工され、慶安年間、家光の時代にようやく完成したようです。今日まで300年も利用され続けていることになります。私が利用した「宇山堰」は、町営水道が引かれ、残念なことに昭和43年に廃止になりました。
箕輪平から蓼科山方向に分け入る間道があり、そこを行くと諏訪大社上社の御柱祭に切り出された御柱の切り株を見ることができます。さらに進めば、「五社大神」(石でできた地蔵のような神様が「塩沢堰」のわきに祭られている)を経て「馬返し」に出る登山道になります。「五社大神」の近くには、国有林の山火事などを監視する「番小屋」があります。この付近ではキャンプファイヤなどをするときには事前に連絡することになっていると思います。
箕輪平と白樺湖の間の六川道沿いに「六千尺ホテル樽が沢温泉」という古い旅館がありました(私が蓼科付近で最初に宿泊したところです。現在は建物はありますが廃業したようですね)。多分「六川道」の「六川(ろくがわ)」を「ろくせん」「六千」と読み替えて命名したのだろうと思います。実際は地図を見ると、海抜六千尺とは一致しません。
以前は白樺湖から蓼科牧場を経て小諸まで国鉄バスがありました。長野新幹線完成後は白樺湖から佐久平まで千曲バスありましたが、いずれも最近ではなくなり、現在は立科町立のマイクロバス(「たてしなスマイル交通シラカバ線」(愛称「おやまちゃんバス」)が主に通学生を対象に白樺湖から芦田の間を走っています。本数は少ないのですが、シーズンの休日は増便があります。
途中に長門牧場などもあります。長門牧場はアイスクリームや自家製のパンなども発売しており、南東に蓼科山とその尾根にある「竜が峰」を見渡せる、広々とした気持ちの良いところです。
竜が峰にまつわると思われる伝承もあります。
立科山の麓に甲賀一郎、二郎、三郎が住んでいました。三郎の妻は非常に美人で、兄達はねたみ、三郎を亡き者にしようとし、立科山山中の人穴の中の宝物を取りに行こうと誘った。三郎に藤の蔓を使い穴に降りるように命じ、三郎が穴人に入っていくと山刀で蔓を切り、帰ってしまいました。
三郎は気がつくと老婆がいて、餅を与えられ元気が出てきたので、老婆の指示した方向に歩いてゆくと、娘たちに出会いました。その案内で大きな屋敷に連れて行かれ、そのお嬢様と結婚し、幸福な生活を送りました。
しかし現世が懐かしくなり、妻に話して了解を得、旅に出ました。現世の国の出口は浅間山の麓の真楽寺の池でした。池から顔を上げると、池の端の子供たちが「龍だ」といって逃げて行ってしまいまし。妻を一目見ようと立科山腹まで行くと、妻の泣声が諏訪の方から聞こえてきました。彼女は三郎が戻らず、悲しんで諏訪湖に身を投げてしまっていました。三郎は諏訪湖に行き、妻と会うことが出来ました。冬の諏訪湖の氷の山脈は妻に会いに行った跡で、三郎の龍と妻が諏訪大社の主神だといわれています。
芦田から更に県道40号線を北に向かうと千曲川を超えて小諸に出ます。小諸には島崎藤村の「小諸なる古城のほとり、雲白く・・・」という詩で有名な懐古園があります。昔は小諸駅に半紙に筆で書かれた「熊に注意」という張り紙が時々見られましたが、最近がどうなのでしょうか。そういえば、その頃(約50年も前の学生時代)、友人が大石峠(すずらん峠)で熊にあったと逃げ帰ったり、蓼科牧場に捕獲された小熊が檻に繋がれたりしていた時期もありました。
千曲川には微笑ましい言い伝えがあります。
日本海に飽きた夫婦のクジラが小海の良さの噂を聞き、行こうということになりました。信濃川を遡り、千曲川に至ったのですが浅くなり、泳ぐのが困難になってきました。そこで一頭が横になって川の流れを堰き止め、もう一頭が水深の深くなった千曲川を泳ぎ、それを交互に行って登って行ったが、途中漁師に小海は海ではないと言われ、がっかりして日本海に戻ったという話しです。
南平からビーナスラインを左に行けば、三本松を経て白樺湖(昔は蓼科大池と呼ばれた灌漑用の人工湖。実際にせき止めた時に水に浸かった白樺が水面から出ていたので、白樺湖と改称された。その後決壊し、空気にさらされたため腐り、現在では湖面からの白樺は見られなくなった)、さらには車山、霧ヶ峰、鷲ヶ峰、扉峠、美ヶ原方面につながっています。白樺湖には冬は天然のスケートリンクがありましたが、遊園地や駐車場になってしまいました。
白樺湖から大門街道(国道152号線)を北に行くと、「仏岩」というところがあります。ピークには鎖やはしごを登る必要があり、東側は絶壁です。学生の頃後輩と出かけ、滑落しそうになったことがあります。
さらに街道を進むと、一昔は繊維工場で栄えた丸子を経て真田幸村などで有名な上田に出ます。上田周辺には別所温泉など数多くの温泉地があります。別荘地で見ることのできる地元テレビ局の解説者などに長野大学の先生を見かけますが、上田電鉄別所線の大学前にあります。社会福祉学部と環境ツーリング学部からなり、一度訪問したことがあります。信州大学の繊維学部も上田市にありますね。
白樺湖に戻り、車山方面に向かってみましょう。
七月の車山付近は山一面にニッコウキスゲが咲き乱れ、素晴らしい景観を作っているのは有名ですが、八月のマツムシソウもまた見事です。マツムシソウは紫色の花で葉の緑に沈むため、ニッコウキスゲのような派手さは無いように思われるかもしれませんが、目線を花の高さに下げて斜面をみると、一瞬に斜面が紫色の世界に見事に変わります。
車山には「オカンばば」という伝承があります。柏原の若者が車山に薪を取りに行ったときに、「ばば」に手紙を届ける使いを頼まれて目をつぶっていると、八ヶ岳の頂上と往復したというような話です。「オカン」は蓼科の麓の湯川村の天狗にさらわれた娘だという別伝もあります。
車山ではハングライダーの講習会などもしていますね。さらに進むとコロポックルというところに来ます。その名前の謂われは判りませんが、アイヌ語でしょうか。その先に行くとグライダーで有名な霧ヶ峰や、「油氷」という良質の氷が張り、かつてスケート練習場としてオリンピックの選手が合宿した「蓼の海」等があります。
しかし、コロポックルからは高原の間道を、車山湿原を経て、八島ヶ原湿原に向かって散策するのも気持ちの良いコースです(夏は木陰が少なく、ちょっと厳しいです)。
途中に旧御射山(もとみさやま)遺跡があります。三角形の盆地状の場所で、周りに数段の観客席の石組が囲んでおり、鎌倉時代に流鏑馬などを行った競技場跡と言われています。草で覆われ、良く見ないと判りにくく、オリンピックの遺跡のようには大規模でも派手ででもありませんが。観覧席の西側が甲州桟敷、南側が信濃侍桟敷、北東側がメインで勅使や鎌倉御家人などの桟敷となっていたようで、7月下旬に年に一度実施したそうです。
八島ヶ池は浮島で有名な湿原ですね(国の天然記念物)。この先は鷲ヶ峰を超えて和田峠とその先の扉峠に出ます。扉峠からは松本に降りるルートがあります。
ここにも伝承があります。
昔、霧ヶ峰東俣(八島ヶ池の西、観音沢、諏訪大社下社の御柱の育成地)の谷間に絶世の美女「カキツバタ」が、大笹の谷(エコーバレー付近)にたくましく端正な容貌の若者「山彦」がいました。二人は好意を寄せ合っていました。ある日二人は、旧御射山(もとみさやま)の湿原でぱったりと出会いました。お互いをほめあいましたが、自分の姿を見たことがありませんでした。
そこで池に自分の姿を映してみようということになりまた。先ず山彦が池に映してみましたが、風で漣が立ち、鬼のような形相が映りすっかり悲観してしまいまた。次にカキツバタが自分を映したところ、その美しさに見入ってしまい、たたずんでいるうちに根が生えて「かきつばた」になってしまいました。山彦は悲観して大笹の谷に身を投げ、行方しらずになってしまいました。
今でも八島湿原に「カキツバタ」が咲き、山彦谷(エコーバレー上部)の殿城山側(分水嶺の蝶々深山の東)に山彦の声が残っていて、呼びかけると山彦の声を聞くことが出来ます。山彦の顔を映した池は「鬼の泉水」という名前で残っているということです。
和田峠付近には、日本有数の黒曜石の産地である「鷹山」の「星糞(ほしくそ)峠」があり、縄文時代に全国で用いられた黒曜石の産地として有名です。世界最古の鉱山とも言われているようです。新和田峠トンネル有料道路と大門街道(国道152号線)をつなぐ県道155線の途中にあります。この遺跡は平成13年に国指定遺跡となっています。黒曜石は鏃や刃物に加工されました。鷹山遺跡の中には明治大学の「黒曜石研究センター」があります。長門町が管理している資料館は「原始・古代ロマン体験館」は、遺跡よりもだいぶ北の大門街道沿いにあり、車で20分ほど遺跡は離れているそうですが、私は未だ行ったことはありません。また、有料道路から県道155線への入口付近は男女倉谷と呼ばれ、後期旧石器時代の遺跡といわれ、石器が20ヶ所以上から発見されているそうです。
なお私は、未だ別荘を建てる前の、ずいぶんと昔のことですが、家内とたまたま美ヶ原に向けて和田峠を通りかかり、有料道路の料金所の方に教えられて、料金所の裏の和田峠のトンネル工事の土の中から黒曜石を拾いました。現在でも私はそれを別荘に置いています。
さらに進むと美ヶ原に出ます。白樺湖から美ヶ原へもバス路線があったのですが、赤字で廃止になってしまったのが、車を使わない私には大変残念です。美ヶ原には彫刻美術館があると思いますが、最近はバスが無くなり、行けていません。
思いつくままに書いてきましたら、長くなってしまいました。記憶の怪しいところは地元の町史や古本、ネットからの情報で補った部分もあることをお断りいたします。
何か所かで触れたように、かつては諏訪地域と北佐久や小県との間には幾つかのルートでバスが通い、一体的でした。しかし、利用客が少なかったため、これらのバス路線も次々に廃止され、観光協会の案内もお互いへの言及や関連情報の提供が少なく、ばらばらになっています。これらのことが悪循環を招き、別荘の運営主体であるアルピコの体力を落としているのではないでしょうか。高齢化が進むと、現在自家用車で来ている別荘住人も、中央線特急「あずさ」や長野新幹線とバスを利用する方向に移るものと思われます。我が家もそのようにしてアルピコバスを毎回利用しています。地元には先を見通した地域活性化の総合的戦略立案と、その実行を考えて欲しいと思います。