分水嶺の南側とミシャグチさま

 

分水嶺の南側とミシャグチさま

C9 市川


昨年の「分水嶺の北側」に続けて南側もという役員会からのお話があり、僭越ながら幾つか紹介したいと思いまあす。

 当別荘地のキャッチフレーズに、「蓼科を愛する人の蓼科」というのがありました。このところ見られなくなったのは残念ですね。

先日読んだ小説「霧の子孫たち」(諏訪出身の作家新田次郎による)は、「旧御射山(もとみさやま)」などがある霧ケ峰の中を「ビーナスライン」を通す工事に対し、遺跡や自然を守るための地元諏訪の人々の運動をまとめた実際の話です。「霧ケ峰の自然と歴史を愛する諏訪の人々」の活動が書かれています。「蓼科を愛する人の蓼科」という言葉を思い出した所以です。

この地域は、なんといっても、棚畑遺跡の「縄文のビーナス」(1986発見、1995国宝)や、中ッ原遺跡の「仮面の女神」(2000発見、2006国重要文化財)、尖り石縄文考古館などがある尖り石遺跡など、縄文遺跡が注目されます。この地区の遺跡には動物を捕獲するための落とし穴も多数見つかっているそうです。もっとも落とし穴は全て縄文のものだけではなく、鎌倉時代くらいまで色々あるようです。

またもう一つの話題の中心は、御柱で有名な諏訪大社とその関連する霧ヶ峰高原、諏訪湖でしょう。

信玄との関連はちょっと顔を覗かせる程度です。また「小津安二郎・野田高梧有縁の碑」や文人・映画俳優等の別荘、蓼科が全国で最も湿度が低い地域ということで皇紀2600年を記念して朝日新聞社が新聞などを記録として保管しているキノコのような白い建造物(文化柱)、蓼科湖の裏山の中腹の洋館のトヨタ記念館と旧東洋観光の蓼科開発などの話題、その他万治の石仏などいろいろありますが、話が発散しますので省略したいと思います。

この地区の様々な伝承は、この「諏訪大社」の神話と縄文時代からの神と思われる「ミシャグチ」が、後述するように神話時代から現在に至るまで様々に絡み合ったものになっているようです。本稿では、この視点を中心に紹介してゆきたいと思います。

しかし、話は複雑に絡んでいるので、初めに簡単に関係を整理しておきます。

先ずは、製鉄技術を背景としたと思われるヤマト朝廷と出雲、諏訪の勢力争いと思われる神話です。その結果として、諏訪大神と縄文時代からの地元勢力の古代の神「ミシャグチ」との平和共存が現在まで続き、諏訪大神を表に建てながらミシャグチが実権を持っていること、ミシャグチは霧ヶ峰の遺跡「旧御射山」と御射山社と関係が深いことがあげられます。また偶然だと思いますが、この神話は不思議なことに、日本の地学上の大きな構造である中央構造線とフォッサマグナとの関係が見出されています。中央構造線は大きく日本の地質を北と南に分けており、フォッサマグナは静岡から糸魚川の間を通る南北の大きな断層として有名です。両者は諏訪湖のところで交差しています。

さて、霧ヶ峰高原には「旧御射山(もとみさやま)」遺跡があります。諏訪大社との関係が深く、各地に御射山社がありますが、上社関連の御射山社はJR「すずらんの里」駅近くにあり、下社関係の御射山社は旧御射山から江戸時代初期に武居入に移されています(そのため「旧」が付くのでしょう)。

「旧御射山」では、平安初期に、坂上田村麻呂が蝦夷征伐のために信濃に来た際に、諏訪明神が騎馬武者に変身し軍を先導、蝦夷の首領を射落としたという伝承から鎌倉時代ころより流鏑馬などの競技が行われるようになったようです。三角形の盆地状の場所で、周りに数段の観客席の石組が囲んでおり、鎌倉時代に流鏑馬などを行った競技場跡と言われています。草で覆われ、良く見ないと判りにくく、オリンピックの遺跡のようには大規模でも派手ででもありませんが。観覧席の西側が甲州桟敷、南側が信濃侍桟敷、北東側がメインで勅使や鎌倉御家人などの桟敷となっていたようで、7月下旬に年に一度実施したそうです。長径350m、短径250mで、3方に観覧席があり、国立競技場より大きく、3.5万人~10万人収容できたとの伝承もあり、東京オリンピック前に大きな話題になりました。

霧ケ峰の麓は諏訪大社下社の御柱の育成地でもあり、さらに霧ケ峰湿原は、尾瀬と共に国から指定された天然記念物(1939年、1960年)で、その動植物は非常に貴重なものとなっています。人の立ち入りなどは、遺跡の破壊や貴重な植物の絶滅などの危惧があるということもあって、諏訪の人々はビーナスラインの建設に反対しました。初めに触れた「霧の子孫たち」は、この運動を小説化したものです。霧ケ峰は諏訪人にとっては特別に思い入れの強い地となっています。諏訪教育会では、1975-1983年にかけて「諏訪の自然」地質編、動物編、植物編、陸水編、気象編を編纂発行しており、霧ケ峰の植物リストなどを掲載していることからも窺えます。

 話しの本筋からは外れますが、閑話休題、霧ヶ峰には「ヤマウバになったムスメ」という伝承を紹介しておきましょう。

 「蓼科高原麓の湯川村にオカンという娘がいた。ある日野良を歩いていると天がにわかに掻き曇り、黒雲の中から天狗がいきなり飛び出し、オカンを抱えて消え去った。何時までたってもオカンが帰らないので大騒ぎになったが、やがてあきらめられ、忘れられてしまった。

 50年ほどもたったころ、ある夜異様な叫び声に村人は起こされた。何日も続くので村の若者が総出で声の方向に行くと、車山の頂上からであった。一人の勇気のある若者が近づくと白髪の老婆が現れた。老婆は「俺は湯川の出だ。50年間今まで天狗が湯川を荒らすのを防いできた。お前らの犠牲になったのだから食べ物をささげろ。腹がすいたから叫んでいたのじゃ」といって、頭上を飛び越えて消えた。

 若者は村に帰って老人たちに話すと、「オカンが生きていたと。天狗の犠牲になっていたと。食べ物をささげねば。」そこで村人は沢山の食べ物をもって車山に登り、置いて帰ったところ、その叫び声は聞こえなくなったとのことである。」

 オカンに関してはまた別の伝承もあります。

 「柏原の若者が車山に薪を取りに行ったときに、「ばば」に出合い、手紙を届ける使いを頼まれて目をつぶらされ、目を開くいと八ヶ岳の頂上にいて、手紙を渡し、再び目を瞑ると車山に戻っていたということです。」

 この「ばば」は「オカン」だと言い伝えられています。

 さて諏訪大社ですが、良く知られているように上社の前宮と本宮、下社の春宮と秋宮からなっています。元々は別の神社だったのではないかと言われています。上社は出雲形式(本殿が無く、御神体は背後の山や木など自然物)なのに対し、下社の一つはヤマト朝廷系の形式(本殿がある)であり、神官最上位の大祝(オオホウリ)も、かつて上社は出雲系の諏訪氏、下社はヤマト出身の金刺氏(現在は共通で、一人の大宮司)だったそうです。

 諏訪大社の行事として有名なのは、何といっても御柱でしょうね。長野オリンピックの開会式でも披露されました。7年に一度(数え方式なので、実は6年毎)に行われ、1200年以上の歴史があるそうです。正式には「式年造営御柱大祭」とよばれ、過去には曳建だけでなく、建物の造営も大掛かりに行われたようです。しかし現在は財政的問題もあり、例えば平成16年には、上社本宮と下社春宮・秋宮の宝殿のみが建て替えられたことのです。一方現在では御柱の意味は失われ、様々に解釈されています。上社では4月最初の金土日に「山出し」、5月ゴールデンウィークに「里曳き」、6月下旬に「宝殿遷座祭」が行われています。それぞれ下社は上社の1週間後に行われます。

 特に「山出し」では、上社の「川越し」と下社の「木落とし」が危険なものとして注目されます。例えば現在では、「川越し」では周囲で密かに潜水夫が警戒に当たっているのが伺えます。「川越し」で公式発表では負傷者となっている方の中には、実は後日亡くなっている方もいたと地元の方から聞いたこともあります。

茅野駅の中央線東京よりの川のすぐ横に上社の御柱の「木落し」の斜面があります。坂を落とされた柱は前宮方向に曳かれてゆきます。中央高速のすぐ下で「川越し」が行われますが、その先、16号線を諏訪湖方向に行くと、左手に奇妙な建物があります。工業的に加工した素材を極力廃した板壁と土を用い、屋根からは薙鎌が突き出た建物です。江戸時代まで上社神長官を務めた守矢家の文書を保管・公開している神長官守矢資料館です。地元出身の有名な建築家藤森照信氏のデビュー作品だそうです。鹿の首(後述)なども展示されており、ちょっとびっくりさせられます。

諏訪大神(建御名方(タケミナカタ)神)は、天照大御神(伊勢神宮の主神)に命じられ出雲の「大国主命」に国譲りを求めてきた「建御雷(タケミカヅチ)之男神」(鹿島神宮主神)に抵抗して敗れ、諏訪に逃げてきた大国主尊の子供と言われています(日本書紀には記載がなく、古事記にも親子関係は書かれておらず、別の伝承)。なお、全国の神様が縁結びなどの計画協議の為に出雲に集まる10月は神無月とも言いますが、建御名方神は今後信濃から出ないと建御雷之男神に誓ったため、彼だけは諏訪に残るという伝承もありますね。それにしても古代に、なぜ遠い鹿島から出雲へ説得に行かせるというような発想がなされたのでしょうか。

 先に中央構造線とフォッサマグナに関係があることに触れました。実は伊勢神宮、諏訪大社、鹿島神宮がこの中央構造線上にあるのです。中央構造線は九州山地、四国山地、近畿山地、渥美半島、明石山脈西側を経て、高遠の方から国道152杖突街道に沿って諏訪大社上社前宮辺りまで来ています。そこでフォッサマグナの断層活動により、岡谷の横河川付近まで約12㎞西にずれています。そのずれた先の付近に下社があります。中央構造線の岡谷から先は関東山地北側をグルッと回って実に鹿島神宮辺りに達しているのだそうです(北関東での位置は産業技術総合研究所がボーリングして地質調査し2006年に報告)。逆に中央構造線を南に方にたどると渥美半島を経由し、なんと伊勢神宮付近を通ります。なんとも不思議な縁です。

 また、この12㎞のずれを戻して繋げてみると、中央構造線とフォッサマグナ交点の対角位置に上社と下社は接して向き合い、結びつけるかように存在しています。この「ずれ」の12㎞は、120-150万年かかったと推定されているそうです。人類が誕生・進化したと推定される期間ですね。縄文人が日本の地学的構造を知っていたとはとても考えられないのですが、偶然なのでしょうね。

 諏訪湖は中央構造線とフォッサマグナが交差し、ずれた場所に位置していることになり、昔は現在の3倍もある広い湖だったそうです

話しを戻しますが、建御名方神に抵抗し敗れた縄文時代からの地元諏訪のモレヤ(モリヤ)族の長の末裔が守矢家で、モレヤ族が祭っていた神はミシャグチ様(様々な自然神、精霊)と呼ばれています。

先述の小説の中の会話に「看護婦長はモリヤ族だ」という記述が説明もなく突然出てきますが、こう見てくると、その意味が判ります。また、「御射山」は「ミシャグチ」の音が転じたのでしょう。各地の御射山社にはミシャグチ様も祭られていて、諏訪大社と御射山社の深い関係も理解できます。流鏑馬など武術との関係は「御射」という言葉から連想し、武家が利用したのでしょう。

建御名方神の子孫といわれている諏訪氏が、上社の「大祝(オオホウリ)」を務め、最上位の神官として象徴的役割を担い、守矢家が実質的神官のリーダとしての神長官を務め、平和共存してきました。「大祝」制度と「神長官」制度は、明治維新で廃止されました。その後、諏方家(江戸時代、政教分離政策により藩主の諏訪家と大祝の諏方家に分離)は、直系15代に当たる弘氏が平成14年に55歳で亡くなられました。最後の「大祝」にあたる方だそうです。また現在の守矢家の78代目当主は東京で教員を務めている女性の方だそうです。神殿「大祝邸」は最近諏訪市が整備を進めています。

大社の周りにはミシャグチ様といわれる石などが祭られており、大神を守っている構図ですが、諏訪大社の主神は実はミシャグチ様であるとか、ミシャグチ様は大神の子供であるとか、様々な伝承があります。なお、前述のように上社には拝殿のみで、本殿がありません。出雲系の形式で、上社の南に聳える「守屋山」そのものがご神体となっています。

御射山に関係した新しい地名に1933年(昭和8年)に農業用水のため池として完成した「御射鹿池」があります。日本画東山魁夷1972年(昭和47年)の作品「緑響く」のモチーフとして有名な池です。諏訪大明神が狩りをする「神野」と呼ばれる場所にあり、ミシャグチ神に捧げるための鹿を射るという神事、御射山御狩神事にちなんで命名されました。諏訪地区では鹿は神への捧げものの意識があり、狩猟や食するためには諏訪大社から下される「鹿食免」が必要だったそうで、鹿は非常に大事にされてきたようです。

 さて、私が当地を最初に訪れた当時、茅野から白樺湖に行く諏訪バスは、車内アナウンスがあり、「御座石神社」の由来などを案内していました。「建御名方神」の母親である「高志沼河姫」が祭神で、高志(越)の国(コシ:現在の新潟県付近)から鹿に乗って大門峠を越えてきたときの鹿の足跡が残っているというところです。

諏訪郡の各神社は大社の御柱祭の前後、例えば10月頃などにそれぞれ小さな御柱祭を行います。プール平近くの林の中の諏訪社にも御柱が建てられています。白樺湖の島にある神社では、御柱を湖を渡して行くなど、独特な方法によるそうです。

茅野市中心市街地の東、大泉山のふもとを流れる柳川に、多留姫の滝(多留姫文学自然の里、茅野市指定文化財)と、そのそばに多留姫神社があり、建御名方神の子・多留姫神がまつられています。諏訪大社の七不思議のひとつに、葛井の清池(茅野市葛井神社)という伝承があり、多留姫の滝に椀などを流すとこの池に浮かび、さらに諏訪大社大晦日の神事のあと、この池にお供え物を投げ込むと元旦に遠江国(現在の静岡県西部)の佐奈岐池に浮かぶと伝えられています。

 諏訪大神タケミナカタが出雲でヤマト勢に破れて諏訪に逃れ、地元のモレヤ族との戦いに勝利した神話は何ゆえ成立したのかという解釈には、様々な考え方があるようです。神話の多くは全国規模の複雑なストーリとなっていますので、単に古事記や日本書紀の作者が作り出したのではなく、古代の経済状況や政治状況を下書きに、作者の立場(政権の視点)から事実を神話に置き換え書き換えたというのが、現在の解釈の主流的考え方のようです。どの説ももっともらしく、読んでいて楽しくなり、自分でも推理したくなります。

 その解釈の背景の中に、古代の「表日本」は日本海側であったということと、武器や農機具の重要な素材である「鉄の技術」の技術競争があるというものがあります。

 前者については、北九州―出雲―敦賀―三国―糸魚川(越)―新潟(越後)―信濃川―諏訪という文化の流れを考え、その中に例えばタケミナカタの母親が越(現在の新潟県)の出身という伝承の意味を捉えているようです。もちろんタケミナカタ自体もこの流れの中に見ることが出来るでしょう。

 尾張や信濃、越など東国は縄文文化を保持し、弥生農耕文化への抵抗が強たったようです。特に信州は今日まで西日本からの文化に対する抵抗が強く、仏教なども中々受け入れなかったといわれています。

 タケミナカタがモレヤ族との戦いに勝ったというのは、ヤマト朝廷側(朝鮮半島からの先進的製鉄技術を持つ)が出雲(砂鉄による古い技術を持つ)に勝ち(国譲り)、負けた出雲勢力が更に信州(さらに古い製鉄技術を持ち、それ故に製鉄に理解がある)に活路を見出したことを反映しているのだと解釈されています。諏訪湖の水は火山により金属成分が多いため、バクテリアにより水草の根に付着し、その金属成分(「スズ」と呼ばれた)から鉄を得る技術をモレヤ族は持っていました。タケミナカタはこの諏訪に逃れ、技術の面から勝利したという考え方です。

 タケミナカタの「ミナカタ」や「御柱」は、製鉄の小屋の構造と関係があるのではないかという議論もあるようです。また、上社にはスズ(鉄製)を使う神使御頭(ごうしおんとう)という神事があり、神使(おこう)が「佐奈伎鈴(さなぎのすず)」と呼ばれる鉄鐸(銅鐸と違い、赤く錆びている)を持って巡回に出かけたそうです。

 その他にも、信州と鉄を結び付ける事例が幾つか上げられています。古代には朝鮮半島の高麗などからの帰化人が信州に多く居住し、朝鮮語系の言葉が多く残っており、鉄関連の言葉の古代の朝鮮語で解釈可能という説もあります。たとえば「カル」は鉄を意味し、「長野」は「ナル(刃物) カル(鉄)」から転じたもので、軽井沢の「カル」なども砂鉄の出る沢などの解釈が出来るという考え方です。日本海側の地名でも同様の傾向が見られるということで、金属系学会全国大会での特別講演などでも取り上げられているとのことです。万葉集における信州の枕詞である「ミスズカル」ですが、「スズ」は鉄などの金属を意味し、「スズ」の付いた水草を刈るとういところから来たと解釈されるようです。

 実は「ビーナスライン」も鉄と深い関係があります。蓼科湖の裏に露天風呂の「石遊の湯」がありますが、その付近に鉄が出るということを信玄が発見し、それ以来この付近一帯で1945年まで鉄の採鉱が行われていました。エスポワールの向かい側、蓼科ビレジの旧管理事務所の裏手に鉄鉱石の貯留施設であるホッパーが残っているようです。戦前には採掘作業に当たる240名規模の捕虜収容所もゴルフ場付近にあったそうです。低品質のため現在では廃鉱になっています。「諏訪鉄山」と呼ばれ、鉱石は採鉱現場から花蒔までは索道で、花蒔から茅野駅までは「国鉄北山線」(12km)によりSLのC1266に曳かれて運ばれました。茅野駅東口広場にC1267が展示されているのはご存知だろうと思います。C1266の代わりに同型車として展示されたものです(そのC1266は再整備され真岡鉄道で2012年10月から活躍している)。そして、ビーナスラインは、主にこの鉄道の跡地に作られたのだそうです。


(私は、一技術者に過ぎず、ここに書いた分野に関しては全くの素人です。長く蓼科に親しんできた関係から、この当たりのことを理解したいと思い、地元の方から話を聞いたり、関連文献を読んだりしたものを、参考までに書いたものであることを申し添えます。誤解の部分があればご容赦ください。なお、どなたか動植物や地質など自然に関する蓼科近辺の情報をまとめていただけるとありがたいと思っています。)


 諏訪大社7不思議:御神渡、元朝の蛙狩り、五穀の筒粥、高野の耳裂け鹿、葛井の清池、御作田の早稲、宝殿の天滴。しかし、実際には上社と下社で重複を含め別々に七不思議が存在し、計11個が存在する。


 




 

 


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